その次の世界へ 魂の旅

魂の探求、霊性を高めること、スピリチュアル全般について綴っています。

膨らむ、育つ、意識のエネルギー

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単に意識が向くのと波動砲は質が違うのだ

前回の話はこちらです↓

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前回は波動砲が飛んできた話を書きましたが、波動砲とは私が勝手に呼んでいるだけであって、要するにサイキック・アタックや、念飛ばし、気や意識を飛ばすというような類のものです。しかし、ちょっと意識が飛んで来たという程度のものではなく、本当に害を被ってしまいかねないほど強烈なエネルギーの事を指して「波動砲」と言っています。私は大抵の場合、波動砲を飛ばした相手が誰かというところまで判ります。自分のオーラの周りに飛ばした人の顔が浮かんで見えるのです。私と同じように波動に敏感な友人などに訊ねると、私が指摘したことと全く同じ答えが返って来ることが多いです。波動砲とまでは行かなくとも、私に意識を向けている人の顔も普通に浮かんで見えてくる事は日常茶飯事で、例えばお客様が私のセッションを予約をしようと考えていた時、私のほうにはその予約のメールを頂く前にお客様の顔が浮かんで見えてくるのです。これは今の仕事をする随分と昔からそうでした。今では私はこの感覚を100%信じるまでに至りました。その話をふとお客様にすると「すみません!うっかりエネルギーを飛ばしてしまったみたいで・・・」とおっしゃいますが、この場合のエネルギーと私の言うところの「波動砲」は全く別物と言っていいほど、エネルギーの質と量が異なります。予約の時に私の方に意識が飛んで来るのは全く問題ありませんのでご心配なく。

嫉妬や欲望や攻撃の心が念を練り上げる?

霊に関する対応のようなものや、耐性(慣れ)のための学びというのでしょうか?それらが一段落したような感じがあり、今はそれとはまた異なるエネルギーに対応していくための学びが始まっている感じがしております。それは「念」という波動についての学び(対応や耐性、回避法)だと思うのですが、霊よりもこちらのほうが厄介なエネルギーだと思います。念を飛ばされた人というのは、波動に敏感ではなかったとしても何らかの影響を受けてしまいます。ことに敏感な人の場合は、尚更つらさを感じてしまうかもしれませんね。一般的に念を飛ばされやすいのは、他者から羨ましがられる人が一番多いように見受けられますが、その他にも、ライバル視されたり、好意を寄せられたり、または嫌悪感を持たれてしまった場合などにも飛ばされてしまう可能性があります。ということで、間違っても自分の成功や才能やラッキーなことをひけらかす気持ちでアピールしたり、不必要に他者を煽ったり、攻撃したり、何らかの嫌悪感などを持たれぬように振る舞うことも、ある意味大切なことです。とは言っても、念を飛ばす人というのは、特定の人に限らず誰彼構わず無意識に飛ばしてしまうようなのです。念を飛ばす人というのは、その殆どが強烈で低級な霊的存在と繋がっていたり、たくさん憑依されていたりするようですので、人への思いやりや気遣いというものよりも、自分の利益や欲望を叶えることを優先させ、無理やり自分のエゴを通そうとして人に念を飛ばしてしまうのです。それは例えば、道を歩いている時に自分が先に行きたい、または、単に自分の前を歩いている人が目障りだからと言って、前を歩いている人に対して「どけよ、オラッ!!」と不必要に威嚇したり、人を突き飛ばしたりするようなものとよく似ています。単に「あの人、なんか気に入らないわ」というだけで念を飛ばす人もいますからね。まあ、念を飛ばすようになるということは、嫉妬、欲望、攻撃などのネガティブな心が膨らみ、育ってしまった(高じた)結果です。ということで、念を飛ばす人はその人自身が心を改めなくてはどうにもなりませんし、そのまま気づかずに時間を過ごしていけば、さらなるカルマを積んでしまいかねません。そこまで来てしまうと取り返しの付かないことになってしまいますので、自分の心の穢れや嫌な部分を直視すのは辛くて逃げ出したくなるようなことかもしれませんが、早めにそのようなところにも目を向け、心をクリアーにしておいたほうが良いと思うのです。

 

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嫉妬は必要ないものである!?

エネルギーを扱う世界では、ポジティブ過ぎるのも本当はあまり良くないのですが、ネガティブ過ぎるのは更におすすめできません。ネガティブさはほどほどであれば、問題回避が出来たり、修正すべきポイントをきちんと押さえる事が出来たり、熟考の機会を得る事が出来るという長所がありますが、強い感情を伴うネガティブさは、自分の心の中に1滴たりとも見当たらない状態にまで持っていく事を、本当はおすすめしたいくらいなのです。我が強まる原因のひとつでもある「嫉妬」という強いネガティブな感情。私はこれについて考えてみたわけですが「もしかして、嫉妬は本当に必要ないものなのかもしれない」と思いました。

誰かに嫉妬するのはお門違い!?

誰かのことを羨ましがり、それが高じて嫉妬となる。そこには色々な心理が見え隠れしているわけですが、これらの感情が出る時というのは、誰か他の人に、物事が上手く行く出来事が起きたり、何かラッキーなことが起きたり、またはその人の持っているものや置かれている環境に対して、自分の状態を比較してしまう事が原因となっているのではないでしょうか?しかし、この人生で与えられたものは人それぞれに異なり、良いものもそうでないものも、過去の産物あるいは学ぶべきテーマでもあると思うのです。「どうしてあの人には与えられていて、私には与えられていないのだろう?」これまでに、さまざまな状況においてこのように思った経験はないでしょうか?自分以外の他の人が持っているものやラッキーな出来事というのは、それまでにその人が積んできた「徳」とも言うべきものによって具現化されたものなのです。このように言ってしまうと宗教くさいと言われかねませんが、時空を超えて幾度の過去生から現在に至るまでに、善い行いや物事に対する努力を積み重ねて来た結果手にしたものなのです。ですので、手にしているものが人によって異なっていて当然ですし、他人が持っていて、自分が持っていないものがあったり、またはその逆のパターンも当然あり得るというわけです。今生、或いは過去生からのその人の行いによって積み上げられたものが、何らかの形となって自分に返ってくるということであれば、他人が持っているものを「いいなぁ~」と軽く思う程度ならまだしも、強く羨ましがったり、羨望が高じて嫉妬や妬みの心を持ってしまったり、さらにはその嫉妬心を相手に態度や言動などでぶつけてしまうのは「お門違い」ということになります。

良きものを運んできてくれる流れを創り出すには?

そして、羨望の目を向ける相手により近づきたいと願ったりして、その相手と同じものを手に入れるというのは、今回の人生の使命や流れが人それぞれに異なっているため難しい場合もあるでしょう。そのように自分の外にばかり目を向けるのではなく、自分がこの人生で与えられたものをよく見つめ、その価値を理解し、そこにエネルギーを与えるほうが、更に人生の時間がより良きものに変化していくと思われます。また、そのためには、自分の目の前の課題に日々コツコツと取り組んで行く事も重要です。その課題も人それぞれに異なりますが、人によっては単調な毎日で、日々のルーティンを行うのみ・・・とういこともあるかと思います。多くの人が、このようなルーティンや単調な日々を課題と受け取らないようですが、これは立派な課題だと思います。そこから、いかに多くのものを受け取ることが出来るでしょうか?また、日々のルーティンの中や、何気ない日常の中にこそ、ちょっとした徳を積むべきポイントというのが潜んでいたりするものです。食べ物や身の回りの物を大切にしたり、日々関わる人々に対して礼節・思いやりの心を持って接したり、その他にも色々な面で慎み深く丁寧に毎日の暮らしを営んでいれば、それも徳を積むことになり、次第にそのプラスのエネルギーが大きくなり、流れを作り出し、その流れが暮らしに更に良きものを運んで来てくれるでしょう。もちろん、何かのスキルについても同じことが言えます。淡々と、コツコツとでも、目の前の事に集中して取り組んで行くうちに、それがやがて大きな流れを成し、タイミングが来た時に望む場所へ連れて行ってくれたり、望むものを運んで来てくれるのです。それがこの人生で起きる場合と、そうではない場合(つまり次または別の人生にて)がありますが、今生でそれを手にすることが出来ないからと言って、諦めたり不貞腐れて「どうでもいい!」という態度になってしまっては勿体無いと思います。今からの積み重ねが別の人生で大輪の花を咲かせたり、かけがえのない宝物を手にすることになるのですからね。このようなことをちょっと考えてみると、他人が持っているものに嫉妬するなんて、本当に必要のないことであると気づくことが出来るかもしれません。みなさま是非、自分だけの花を咲かせ、自分だけの宝物を手にしてくださいませね。

 

 
今日もたくさんの応援を有難う御座います!
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